人権を抑圧する「カルト」の定義2005年06月26日 07:18

人権を抑圧する「カルト」の定義

 自分の欲望・利益を満足するために宗教を利用するあさましい宗教者がいる。幹部がそうであると、ナンバー2、3が、また、自分の欲望(金、地位、名誉、性など)をも満足させてくれるので、トップにとりいり、支援して、上位の幹部グループが「カルト」集団になる。

「カルト」とは何か(1)

 「カルト」は、定義が種々あって、統一的な見解はない。カルトとは何かを研究者の幾つかの定義、特徴についての説明をとおしてみていこう。
 竹下節子氏は、次のように説明している。
     「この本の中でカルトというのは、ある特殊な人間や考え方を排他的に信奉する動きを指しているので、フランス語のセクトにあたるだろう。その特徴は、排他、独善、覇権主義、内輪主義、非公開などだ。グループ内には一定の典礼、修行、約束事があり、カリスマ的なリーダーがいて全体主義的な傾向もある。」(1)

     「現代のカルトの実態は、外部の社会は悪に染まったもの、悪魔の仕業などと決めつけて外界と縁を切らせ、極端な教条主義、ラディカルでピュアなイデオロギー、内部における異論を認めぬ全体主義などで孤立したさまざまなグループだ。そのせいで、グループの内部では、しばしば社会から弾圧、迫害を受けているという犠牲者の感情が育ちやすい。実は、宗教的な看板の裏で、グループの目的の第一義は上層部における「権力」の追求であったりする。その権力は、信者を宗教的な「教え」に帰依させて得るものではなく、事実上、信者を心理操作することでのみ得られる。」(2)

カルトの表看板

     「カルトはいろいろな表看板を掲げて、金集め人集め、権力の掌握などの本音をカモフラージュする。(中略)
     カルトの表の姿には、孤独を癒す仲間意識を強調したものや、職業上の競争の困難を解決してくれる自己改革の約束をくれるもの、精神力の鍛錬(実はグループの利益にのみ使われる道具となる)を目指すものなどが多い。
     その他に、グループによっては、難病の治癒、麻薬中毒からの解放、さまざまな「大義」を掲げて特徴にする。「大義」とは、世界平和、環境保護、人権擁護、フェミニズム、第三世界支援などだ。(中略)
     カルチャー、エステ、スポーツ、教育の分野もカルトの表看板になる。(中略)
     しかし、カルトのカモフラージュにもっともよく使われているのは、やはり「宗教」だろう。詐欺師、ビジネス人間、あるいは盲想や人格障害をかかえたリーダーが、宗教者を装ったり自分で宗教者だとか神だとか思い込んだりしてしまう。もともとカルトと宗教は親和性があるのだ。」(3)
 カルトは、教祖を絶対に崇拝させることが多いが、その点をマーガレット・シンガー氏は、次のように説明している。
     「カルト指導者は自分みずからを崇拝の対象とする。(中略)カルト指導者は、ほかでもない自分を愛、献身、忠誠の対象と化せしめる。たとえば、指導者にたいする帰依の程度をためすために、夫婦を強制的に別居させたり、親に子供を手放すことを強いたりするのだ。」(4)
 カルトは、生きた人間(教祖、会長、貫主、など呼称は様々でも、その組織のトップ)を、「ブッダの生まれかわり」とか「神」、「神の意志の唯一の伝え手」とか言って、自分だけが特別な者として崇拝の対象にさせる。彼(女)と彼(女)の利益のおちこぼれ、分け前を得て自分も利益(欲、満足、喜び)を得る幹部のために、信者は、金、労力、家族、こころ、身体、人生を捧げる。宗教心によって洗脳させられているので、信者本人もしばらくは喜んでいるが、自分が教祖や幹部から搾取されて心の奴隷になっていることに自覚がなく、主体性を失い、我利のために善良な信者を利用する愚劣な幹部の利益のために、貴重な人生を、つまらない人生にして送ることになる。日本にも、多くのカルトがある。

(注)
  • (1)竹下節子「カルトか宗教か」文春新書、文芸春秋、16頁。
  • (2)同上、23頁。
  • (3)同上、34頁。
  • (4)マーガレット・シンガー「カルト」飛鳥新社、29頁。

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