学者の逆行が苦境をもたらした ― 2005年11月28日 17:20
学者の逆行が苦境をもたらした
マレーシアの前首相、マハティール・モハマド氏が、宗教学者の視野の狭さを論じている。(朝日新聞、11/26/2005、「私の視点」「逆行が苦境をもたらした」)
要旨は、こうである。イスラムの聖典、コーランは、一つであるのに、その解釈がまちまちとなって、イスラムは、約1千にも分裂している。なかには、「対立が深く、お互いに「カーフィル(不信仰者)と非難し合っている。」
学者たちは、科学的な研究を抑制し、宗教のみを学ぶために視野が狭くなった。
「欧州では科学や数学的な知識への信奉が始まり、ルネサンス期を迎えていくのに、イスラム世界は知的後退期へと向かった。そうした視野の狭さが、今日のイスラム教徒を苦境に導いたのである。」
日本の仏教も、多数の教団に分裂している。僧侶、学者の論文を読むと、お互いに、激しく批判し、憎みあっているものがある。教団内においても、分裂している。学者と僧侶の対立もある。出典は、同じ釈尊(「初期仏教経典」)または、一つの語録(「正法眼蔵」)だったはずなのに。
仏教や禅は、人の心の分析を含むが、その領域は、心理学や精神医学という科学が発展してきた。特に、アメリカにおいて著しい。そちらが、仏教や禅を肯定してきたようだ。だが、日本の仏教の学者は、違う解釈をしてきた人が多い。日本の、仏教の学者も、宗教のみを学び、人間科学を学ばないために、視野が狭くなって、経典や僧侶の語録の解釈を誤ってしまったのではないか。
日本の仏教も、僧侶さえも、釈尊のすすめた実践をせず、生身の人間の苦悩を救済できず、衰退している。学問の解釈が、最近の人間科学とは乖離しているのだから、無理もない。僧侶も国民も、その理論では、仏教への信頼、実践への動機を喪失してしまった。
だが、本来の仏教は、アメリカの人間科学で、再評価されている。問題は、釈尊にあるのではなくて、乖離して解釈した学問に問題があったのだ。学者の視野の狭い解釈が問題であった。アメリカの心理学者によって、仏教は科学によってもその妥当性をもつと裏づけされて再び脚光をあびる気配がみえてきた。
種々の領域で、既成価値の崩壊が起きているが、この領域でも、それが起きようとしている。不幸な時代が終るのだろうか。それとも、まだ、続くのか。この世紀の日本を作る若い人たちの選択にかかっている。
人権を抑圧する「カルト」の定義 ― 2005年06月26日 07:18
人権を抑圧する「カルト」の定義
自分の欲望・利益を満足するために宗教を利用するあさましい宗教者がいる。幹部がそうであると、ナンバー2、3が、また、自分の欲望(金、地位、名誉、性など)をも満足させてくれるので、トップにとりいり、支援して、上位の幹部グループが「カルト」集団になる。「カルト」とは何か(1)
「カルト」は、定義が種々あって、統一的な見解はない。カルトとは何かを研究者の幾つかの定義、特徴についての説明をとおしてみていこう。竹下節子氏は、次のように説明している。
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「この本の中でカルトというのは、ある特殊な人間や考え方を排他的に信奉する動きを指しているので、フランス語のセクトにあたるだろう。その特徴は、排他、独善、覇権主義、内輪主義、非公開などだ。グループ内には一定の典礼、修行、約束事があり、カリスマ的なリーダーがいて全体主義的な傾向もある。」(1)
「現代のカルトの実態は、外部の社会は悪に染まったもの、悪魔の仕業などと決めつけて外界と縁を切らせ、極端な教条主義、ラディカルでピュアなイデオロギー、内部における異論を認めぬ全体主義などで孤立したさまざまなグループだ。そのせいで、グループの内部では、しばしば社会から弾圧、迫害を受けているという犠牲者の感情が育ちやすい。実は、宗教的な看板の裏で、グループの目的の第一義は上層部における「権力」の追求であったりする。その権力は、信者を宗教的な「教え」に帰依させて得るものではなく、事実上、信者を心理操作することでのみ得られる。」(2)
カルトの表看板
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「カルトはいろいろな表看板を掲げて、金集め人集め、権力の掌握などの本音をカモフラージュする。(中略)
カルトの表の姿には、孤独を癒す仲間意識を強調したものや、職業上の競争の困難を解決してくれる自己改革の約束をくれるもの、精神力の鍛錬(実はグループの利益にのみ使われる道具となる)を目指すものなどが多い。
その他に、グループによっては、難病の治癒、麻薬中毒からの解放、さまざまな「大義」を掲げて特徴にする。「大義」とは、世界平和、環境保護、人権擁護、フェミニズム、第三世界支援などだ。(中略)
カルチャー、エステ、スポーツ、教育の分野もカルトの表看板になる。(中略)
しかし、カルトのカモフラージュにもっともよく使われているのは、やはり「宗教」だろう。詐欺師、ビジネス人間、あるいは盲想や人格障害をかかえたリーダーが、宗教者を装ったり自分で宗教者だとか神だとか思い込んだりしてしまう。もともとカルトと宗教は親和性があるのだ。」(3)
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「カルト指導者は自分みずからを崇拝の対象とする。(中略)カルト指導者は、ほかでもない自分を愛、献身、忠誠の対象と化せしめる。たとえば、指導者にたいする帰依の程度をためすために、夫婦を強制的に別居させたり、親に子供を手放すことを強いたりするのだ。」(4)
(注)
- (1)竹下節子「カルトか宗教か」文春新書、文芸春秋、16頁。
- (2)同上、23頁。
- (3)同上、34頁。
- (4)マーガレット・シンガー「カルト」飛鳥新社、29頁。
人権を抑圧する「カルト」 ― 2005年06月26日 06:15
人権を抑圧する「カルト」
自分の欲望・利益を満足するために宗教を利用するあさましい宗教者がいる。宗教は元来は、苦悩する人を救済する目的をもつものであろうが、宗教指導者が自分の欲望を抑制できないとか、他者の苦悩を思いやることができない人間が加わると、「カルト」になる。救いを求めるつもりの宗教によって、人権を抑圧され、財産を奪われ、苦しむ人や、抑圧されていながら、そのことにめざめず、奴隷のように宗教者に奉仕する人がいる。オウム真理教事件は、その規模、および、大量殺人という犯行の異常性によって、多くの人が知っているが、「カルト」と呼ばれる特殊の思想、宗教を提唱し、信者を抑圧して、人権を無視する団体が多い。その行動によって、信者本人ばかりでなく、その子供の成長・発達を阻害し、一般社会への適応を困難にするという問題を引き起こす。信者や組織員は、組織のトップから、その人を絶対視させて、特殊の思想を植え付けられていて、「不安」に関連して、一種の心の病気、社会への不適応の状態にあるので、被害者を救済するには、特別のカウンセリングが必要になる。
元来、仏教は、厳しい自己洞察を求める。自分勝手な思想で自己満足することを許さない。カルトが主張する思想、教えとは、仏教でいう「悪見」(「我見」「見取見」「戒禁取見」など)であり、認知療法でいう「固定観念」である。これを修正しない限り、被害者は「不安」から解放されず、根本解決には至らない。仏教カウンセリングも認知療法も、「悪見」や「固定観念」の修正をはかるので、カルトや宗教問題で苦悩する人を治癒させることを試みる。
とりあえず、次の点があるのは、カルトの様相が強いので、注意してほしい。被害・苦悩が大きくないうちに、脱会したほうがよい。
- 組織のトップや幹部(生きている人間)を絶対視させる。
- 外部の社会を汚れたところ、おそろしいところとする特殊な思想がある。
- 現在の職業、現在の家庭から離脱することをすすめる。
- 多額の献金をさせる。
- 財産のすべて、あるいは、相当な高額を拠出させて、その組織から脱退しにくい状況にしている。
- 隔離された施設に共同生活し、外部の情報を遮断する。
- 施設内での活動を参観させない。
そのほか、自らの悪を隠す傾向があるので、カルトは、次のように自分たちの正体を隠して勧誘する場合がある。早く気がついて、とおざかるべきである。
- 外部への宣伝では、上記のようなことはないというが、実際は行なっていること。
- 外部へは、セミナー、自己啓発、ヨーガ、カウンセリング、生涯学習、種々の社会問題(ひきこもり、不登校、過食、育児不安、など)にとりくむ援助を行う企業やNPOなどを装う。しかし、実質、上記の様相がある団体は、カルトである可能性が高い。
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